2017年5月15日月曜日

意義と公共性




本論は、以前の授業資料の一節の抜粋 である。いや、書き直していたらお蔵入りになりそうなもので、こっちに書いておく事にしました。

「文の意味」という話題になると、決まって、文や言葉の意味なんて解釈する人それぞれで、共通の理解なんて存在しないし、ましてや意味の理論なんて構築不可能だと主張する人たちが出てくる。また、一見異なった立場だが、例えば、文や語がそれを聞いた人間の脳(もしくは心、心的プロセス)に何を呼び起こすかを特定して、そのニューロンの励起か何かを文や語の意味とする、という脳科学チックな解決法を考える人もいるかもしれない。

どちらのやり方も、意味というものがあるとすれば、それは人間の心の中のプロセス(後者の場合は生化学的)の中に私的に存在し、伝達したり共有したりはその後の話である(したがって困難である)という立場にもとづいているように思われる。
そして、どちらも、昔から心理主義的誤謬と呼ばれる誤謬の現代版であり、特に後者は現代のトンデモさん御用達である。
19世紀に完膚なきまでに心理主義を批判したフレーゲ曰く
「[心理主義は]概念はまるで葉が木に生い茂るように個々人の心の中に発生し、その発生を研究し人間の心の本性から心理学的に説明しようとすることで概念の本質を知ることができると考えられている。しかしこの考えは、全てを主観的なものの中に引き込み、突き詰めれば真理を捨て去ることになる」(フレーゲ「算術の基礎」序文)
フレーゲが「意義」を導入して以降の現代的な言語哲学においては、言語の本質とはその公共性である。もちろんコミュニケーションの場面では、どんなときにでも誤解の余地はある。もしかしたら「コミュニケーションがうまくいっている」という思いは、コミュニケーション参加者の錯覚かもしれない。しかし、人間は、第三者の観察者の目から見て、多くの場面であたかも本当に意思を疎通させているように振舞っているように見える(このことは、数学が自然現象をシミュレートする際に大変有用である事と並んで、哲学における最大の難問の一つであるが、しかし、多くの場合ホントに上手くいっているんだから仕方がない。)。

冒頭で述べたように、私のアプローチは、人間の推論を観察し、観察可能なもののみに基づいて、その外見をシミュレーションできる記号体系を観察することである。直接に観察可能でないもの(真理値など)は、観察可能な現象の説明のために、二次的に導入される。したがって、本書では、外から見て観察可能な事象、つまりコミュニケーションにおいて意思疎通が成功したように見えるかどうかのみを考慮の対象とする。主観的な人間観では、この多くの場面でなぜコミュニケーションが成立しているように見えるのか、説明できない(もちろん主観的な立場に立てば、自己申告で、「彼女はぜんぜん僕の言うことを分かってくれていない」とか言うこともできるかもしれないが、本アプローチにおいてそんなことは知ったことではない)。

ナイーブな例えだが、人間の心的プロセスを、ノートPCの類推で考えてみよう。
人間の「心」や脳や神経系は、ノートPCのハードウェアに相当する。ノートPCに何か入力(文字列)をしたとき、入力は電気信号に変換され、最終的にはCPUで処理される。同様に、人間の言語も最終的には脳のニューロンで処理される。この意味で「主観的」(もしくは脳科学的)である。しかし、現代のPCの場合、たとえば入力した文字列の処理をハードウェアにのみ依存したやり方で行うことはない。デルのノートPCとVAIOでは(ましてや筆者が使っていMacBookでは特に)ハードウェアの構造も使用部品も違う。しかし、どのノート上でも同じOS(Windows)は動くし、そのOS上で、どのPC上でも同じMS Wordが動く。
入力文字列を処理する手続きは、多くの場合、ハードウェアから独立に、OSやソフトウェアのレベルで決められている。

人間の場合、「意味」の処理は言語によって行われている。
人間は、(その人間が生まれる前から存在する、社会的で公共的な)言語によって概念を定義し、概念を操作する。人間の場合でも、フレーゲ風に言えば、思想とは客観的なものである。ある程度以上抽象的な概念やその操作、例えば「言葉の意味」や「数学的概念の操作」は、公共的なもの、つまりコンピューターで言えばハードウェア依存ではないOSレベルの現象である。
したがって、人によってその中身が異なる可能性を考えなくてよいし、それらの概念がどのように理解されているかを理解するために神経系などといったハードウェアに近いレベルを考える必要があるのか疑問である。

読み直してみると、これ、どこにも名前が出てきませんけど、えらくデネット的なんですよね。書いた当時読んだ事がなかったんですが、そういう発想は世間中にいろいろな形で広がっていて、どこかで感染したんでしょうか。

2016年1月26日火曜日

ホントツキ文はホントウなのか

 お久しぶりです。このブログの更新も年に一回ペースとなってきましたが、本日は真理理論についてです。先週末、大学院の研究科横断授業において、真理理論のミニコースをやったんですが、初日の土曜日の夕方に悪さをしない自己言及文である「ホントツキ文(truth teller)」の話になりました。これは、
この文はホントである
 という文です。この文を否定したらウソツキ文「この文はウソである」ですね。
 ホントツキ文とウソツキ文の違いは、もちろん、ウソツキ文は存在を認めるだけで矛盾を導くけれど、ホントツキ文は認めても何も問題を起こさない、ということです。
  • ホントツキ文が真だとしましょう。この場合、ホントツキ文は真になります。だってホントツキ文が真であることが真だから…そりゃそうだ。
  • ホントツキ文が偽だとしましょう。この場合、ホントツキ文は偽になります。だってホントツキ文が偽であることが真だから…そうだね、偽だね。
 という訳で、だからなんだという話です。別に矛盾は起きません。クリプキは、outline theory of truth において「ウソツキ文は真理値を認めたらヤバいけど、ホントツキ文は認めても別に害はないんだから、真理値を割りふる対象にしていいじゃん」と論じています。

ホントツキ文に真理値を割りふって良いことにしましょう。では、真理値は真と偽どっちなんでしょうか? …これ、けっこう難しい問題なんですよね。グプタとベルナップは、「ある文が真であるためには、その文を真にする何か特質(virtue)があるはずだ」と論じています。続けて「ではホントツキ文が真だとすると、ホントツキ文を真にする特質って何やねん?」
はい、ホントツキ文は、ただ「自分が真である」と言うことだけを主張していて、何の根拠もありません。というか、自分自身の正しさを根拠無しに主張することこそが、ホントツキ文の本質なのです。
 果たしてこの文はホントなのかウソなのか。授業の時に出席者にホントツキ文をホントと感じるか、直感を聞いてみました。すると
  • ホントと感じる 3人 
  • ウソと感じる 0人 
  • どちらでもないと感じる 4人 
という結果になったんです。ということで味を占めて、実験哲学の精神に則り、ツイッターで皆さんにアンケートを採ってみました。その結果が以下のツイートです。


大変意外な結果でした。何と言っても、ホントと感じる人とどちらでもないと感じる人の間に余り有意な差が無いこと、それから(どこにも否定が使用されていないので論理学的に偽と感じる要素がないにもかかわらず)ウソと感じる人が意外と多いことです。

この件に関し、意見を聞いてみると、結構面白い意見が聞けました。
まず、真と感じる人。この人達は「なんとなく真だと感じた」「直感的に」という感じの答でした。
次に真偽どちらでもないと感じる人。こちらは「初めは真だと感じたが、次の瞬間『真偽どちらでもない』と思い直した」など、ちょっと考える時間が挟まっているのがポイントです。
最後にウソと感じる人。こちらの方のコメントが大変示唆的です。

以上を踏まえて考えてみると、以下のように整理できると思います。
  • 最初の瞬間、ホントツキ文は「ホントだ」と言っているのだから、まず多くの人はその主張を素朴に信じる。なぜならば信じてはいけない証拠はないのだから。
  • しかしそれは一瞬であり、二瞬目には、ホントツキ文がホントである証拠がないこと、同時に否定する理由もないことを見て取る。その後の対応は個人差がでる。
    1. 多くの人は、肯定する理由もないが、否定する理由もないので、判断を代えない。
    2. 同じくらい多くの人は、肯定する理由も否定する理由もないので、「真偽どちらでもない」と判断を代える。
    3. 一部の人は、ホントツキ文が何の理由もないのに「ホントだ」と主張する姿を見て、疑念を持って判断を代え、ウソだと考える。
まとめると、ホントツキ文のような根拠(真偽を決める特質)のない文の真偽を考えると、以下のような三つの真理に対する別の考え方を反映するようです。
  1. 否定する理由がなければ文は真
  2. 肯定する理由があれば真、否定する理由があれば偽、どちらでもなければどちらでもない
  3. 肯定する理由がなければ偽
人間が素朴に持っている真理概念は、多くの場合、みんな共通であると思われていますが、ホントツキ文の例が示すように、実は結構食い違っているのかもしれません。 さらなる検討が求められます。

2015年5月4日月曜日

スタニスワフ・レム「天の声」についてのメモ


「『天の声』はレムの最も魅惑的だが同時に好きになれない作品となるのである」(フレデリック・ジェイムソン「未来の考古学」Ip.187)

「天の声」は不可知論小説であり、劇的なクライマックスは決してやってこず、大騒ぎしても結局何も起きない徒労感がメインテーマである。…こういうと見も蓋もないが、そもそも科学研究とはこういうものであり、その意味で非常にリアルな小説である。

第一章       大きな波

第一節 ファーストコンタクト

宇宙人は啓蒙時代には既に人気のテーマであり、宇宙人とのファーストコンタクトは、ウェルズの時代には既にSFの重要なテーマとなっていたが、その場合、宇宙人を外敵=安全保障上の脅威と重ね合わせてイメージする事が多かった。ウェルズは、「宇宙戦争」において、平和なロンドンの日常が火星人の侵略により急に破壊される光景を描いた(レムは、第二次世界大戦時のドイツ軍のポーランド侵略の経験から、19世紀の平和なイギリスの住人がなぜあんなに急激な日常の崩壊をウェルズが想像することができたのか感嘆している)。この小説は、1933年にオーソン・ウェルズによってラジオドラマ化され、ナチス・ドイツのヨーロッパでの伸張に不安を抱いていたアメリカ人の間に大騒ぎを巻き起こした。1950年代には、冷戦下、地球を狙う「緑色の火星人」は、アメリカ侵略を企む共産主義の手先のスパイ団同様、よく見られたテーマである。その後、冷戦が進むにつれ、単なる侵略者としての宇宙人という単純なテーマ以外にも、アメリカ/ソ連のSFには逆に「侵略する側としての地球人」「解放者としての地球人」といった、戦後の超大国としての経験を反映したものが多くなる。
さて、マジメな科学的可能性としての宇宙人を考える場合、宇宙人との接触というテーマ自体、人気が無くなってきた。というのも、19世紀の宇宙は大分小さく、宇宙人も火星や金星に住んでいたが、天文学と宇宙開発技術の結果、宇宙人のいる場所はどんどん遠くなってきたからである。レムのキャリアの初期、すでに金星に現在宇宙人が居ないことは明らかになっていた。その結果、宇宙人との電波などによる交信がSETI計画などで語られるようになる。
「天の声」は、この種の遠隔コンタクト時代の代表的SFということになる(遠隔コンタクトは、もちろん直接接触に比べドラマ性が低く、どのようにドラマを作るかが最大の問題点となる)。もちろん、よく知られているように、SETI計画には何の進展もなく、SETIも今やPCのスクリーンセーバーとしても忘れられつつある。その意味で、「天の声」は、すでに時代遅れになりかけた小説である(少なくとも文脈がわかりにくい小説である)とは言える。

第二節 「世界史的瞬間」とラザローヴィッツ

当たり前のことだが、宇宙人からのメッセージの受け取りは世界史的大事件である。そして、UFO狂のラザローヴィッツPh.D.の運命は、本作品における人類のMAVO計画における狂騒を象徴する存在である。
もちろん、彼自身は単なる電波なUFO狂であったが、彼の考え、ニュートリノ線は宇宙人からのメッセージであり政府が宇宙人とのコンタクトをひた隠しにしていること、は正しかった。しかし、計画は、政治的必要からラザローヴィッツを破滅させなければならなかった。この点は、結局政治によって左右される計画全体の姿を象徴し、「計画の原罪」となっている。

「彼がぶつかった波があれほど大きくなければ、ラザローヴィッツはおそらくさほどひどくない偏執狂として、空飛ぶ円盤の問題やその他のことになんの支障もなく没頭し、けっこう平穏に暮らしていたかもしれない。なにしろ、爆発でもするように彼の抵抗力を引き裂き、破滅させてしまったのは、そうした人間の欠点ではなくて、自分のもっともすばらしい財産であると思っていたものとまったく切り離されているという意識、人類の歴史をふたつの部分に切断している発見であったのだ。」(「天の声」p.56

その後仄めかされていることは、彼のメッセージに関する擬人的で的外れな解釈の山も、実はMAVO計画と大差はないということである(実際、メッセージの送り主の意図に関する擬人的解釈から最後の最後まで計画参加者達は自由ではない)。

第三節 ホーガスのモデル

主人公は数学者である。「腰の定まらない数学者」であり、博士論文にはエルゴート理論を取り上げ、師匠(物理学者)の作った体系の公理型に関しメタ数学的研究を行い、「ホーガス群」を作り上げたという。数学における革命、「倫理学の物理学化」?…一体何の研究をやっていたのか全く理解できない(エルゴート理論のメタ数学?)。物理学者や人類学者と共同研究も広く行っている。

物理学者と仲がよい社交的な数学者というと、典型的な例は、マンハッタン計画と核兵器開発・コンピューター開発で大活躍したフォン・ノイマンである。彼は論理学・核物理学・計算機科学・ゲーム理論に渡って幅広い業績がある。しかし、彼は核開発計画では管理者・組織者的面が強すぎ、ホーガスとは異なるタイプであるのかもしれない。もっといい例なのが、スタニスワフ・ウラムであろう。彼は、ポーランドのルブフ出身で、戦間期は関数解析・集合論で多くの業績を上げ、第二次大戦直前にアメリカに移住、マンハッタン計画と核兵器開発で活躍した。水爆の数学的可能性を証明したこと、数値シミュレーションのモンテカルロ法を発明したことでも有名である。彼は皮肉屋で社交的数学者、また教養が深いことでも知られている(同じポーランド人だし)。

ロス・アラモスの核科学者達は、マンハッタン計画スタイルの研究(大規模プロジェクト、数値シミュレーションを併用した数学的研究)は今後の重要な科学の手法であり、生物学や気象学、さらに人文科学全般に応用できると考えていた。「天の声」では、「蠅の王」は細胞膜に似た構造体(しかし原子核反応が起こっている)であり、メッセージは通常の言語の手紙と言うよりは生物の遺伝子の構造に似ている。
遺伝子は、情報でありながら、その情報を使用して構成される構造体を作り上げるための物理的環境でもあり、情報科学的に非常に面白い存在である(現在、情報科学ではやりの話題である)。この「情報系としての生物」というアイディアは、当時としては新しいアイディアであり、この点に着目したのは先見の明があると言える。

また、ホーガスの同僚達もキャラとしてそれなりに立っている。ラッパポート博士は東欧出身のユダヤ系哲学者であり、ホガートの分身ともいえる(キャラが被りまくりであり、彼がメインキャラになったのは「通夜」の時に東欧的深酒のgdgd感を出したかったからではないかという疑惑が…)。プロセロ、ディルらの物理学出身の万能家たちも含め、彼らは一分野の専門家ではなく、多くの分野で業績を残した専門家達である…現代の成熟した科学にこんな万能家は少ないのだが、たしかにマンハッタン計画の時期にはたしかにいたし、学問分野が若い頃にはこういう人たちが必ず出てくるものである(その意味でこの小説には1960年代的な雰囲気が漂う)。

唐突にラッパポート博士のユダヤ人虐殺回想がここにある意味?
ユダヤ人レムのユダヤ人問題(書類を偽造してユダヤ人狩りを免れる)
「変身病棟」

最後に、当たり前の点であるが指摘しておくと、レムの小説の特色とも言える「架空の学問体系のそれっぽい構築」(ソラリス学、「泰平ヨンの現場検証」、「第二十一回の旅」などで出てくる架空の星の歴史など)の手腕が本書でも遺憾なく発揮されている(ただし数学に関する話は残念ながらそれっぽい単語の羅列で終わっている)。

第二章       フグ料理のレシピ

第一節 ロス・アラモス

本作で最も大きなウェイトを占めるのが、冷戦スリラーである。ラザローヴィッツがメッセージをモールス信号で書かれていると考えたように、メッセージは解読者の偏見を自然に反映する存在である。冷戦下の科学者達は、核実験場に集められ、核科学的な方面の関心から研究にあたった。
この核実験場は、明らかに、マンハッタン計画の舞台となったロス・アラモスに強いインスパイアを受けている。最近は、ファイマン自伝などの影響で、科学者のパラダイス視されているアレである。ラッパポート博士の説では、トリュフを探す豚の巣。
テクノロジー的には、時代は六十年代なのか、所々妙にアナクロな物が登場する。例えばホーガスの部屋にあるIBMクリオトロン計算機、ペダル付きの揺り木馬である。今時、ペダル入力式の計算機なんて想像できるだろうか。

この「計画」自身について、その政治的な立場は色々と興味深いものがある。例えばバロインとイーネイ博士である。バロインはオッペンハイマー、イーネイ博士は原子力委員会のストラウス委員長がモデルなのか、ともかく良心的科学者と軍部代表というわかりやすい構図になっている。

第二節 爆発移転効果

メッセージから作られた「蠅の王」「カエルの卵」は、もしかしたら、核反応を必然的に伴うものではなく、核科学に強い興味を持つ人類が核科学の枠組みの仲で再現したから爆発移転効果を生む存在になったのかもしれない(「穿孔テープと自動ピアノ」)。その意味で、「黒豚料理をフグ料理だと取り違えた」ことがおきたのかもしれない。

爆発移転効果は、もしかしたら冷戦下で核の均衡を揺るがしかねない大発見だった。「通夜」におけるホガートとラッパポートの話は、よくある核戦争物のクライマックス直前のシーン(真実の瞬間、うなるICBM、良心的科学者同士の魂の会話)のパロディになっている。確かに、探知のしようがない核攻撃は、相互確証破壊を破綻に追いやる。しかし、「天の声」は不可知論小説であり、そういう劇的なクライマックスは決してやってこない。アンチ・クライマックスにおいて、爆発移転効果は距離の二乗でエネルギーが発散することが示され、結局全てが徒労に終わる。
本来ならばクライマックスになるはずだった軍部と「反計画」の進駐も、結局、爆発移転効果が無害であることが示された後だったため、結局単なる1エピソードとして終わっている。それどころか、「反計画」の軍事科学者達には爆発転移効果の発見はできないので反計画が解体されるというおまけ付きである。

もちろん、「計画」も人間の組織であり、実際に終わりが来るはずなのだが、メッセージが解読される気配はないため、本書中、いつまでも永遠に続きそうな気配である。小説自体の

第三章 物自体

第一節 宇宙人の理解可能性

そもそも、宇宙人は、人類に理解可能な存在である保証はない。カール・セーガンを初めとする宇宙人研究者達は、宇宙人が技術的に人類より進歩しているだろう事は認めるが、
  • 科学は普遍的であり
  • 彼らは幼子たる人類に分かるように話しかけてくるだろうから
理解できるだろう、と主張している(ホーガスが上院議員に説明するように「貴方は幼児に話しかけることはできる」)。もちろん、メッセージが人類に向けての物でなければ理解することはできないが(「おたくが上院でする演説は理解できない」)。

問題は、「科学の普遍性」という概念にある。科学に対する相対主義的なアプローチは
  • 人間同士でも共役不可能な、「異なる概念枠」がありうる、という立場(強い非難を浴びているものの、依然として人気がある立場)(文化的な理解不能性)
  • 科学は進化的に獲得されたもので、人間の生物学的・進化史的条件と密接に結びついているため、もし全く条件が異なる生物がいれば、そもそも何が言語なのかすら同意できないだろうと考える立場

とまとめる事ができる。レムのSF における類型を並べてみると、以下のようになる:

  • 人間同士の理解不能性:「未来学会議」「星からの帰還」
  •  「砂漠の惑星」のような、進化的により劣っており、彼らのメカニズムについてある程度理解可能ではあるが、言語や意図が相互理解不可能であるもの。「砂漠の惑星」的理解不能性は、通常の意味でのコミュニケーション不可能性に近く、その不可能性はある意味わかりやすい。ロボット虫群は科学を持たない。
  • エデンなど、ある程度コミュニケート可能・理解可能な宇宙人。彼らはもし科学を持つなら人間の科学と同じ物になると期待できる
  • 「ソラリスの陽の下に」のように、そもそも人知を越えたもの:ソラリスは、そもそも恒星系として不安定であり、進化的にソラリスがどう発達してきたかの道筋を思い描くことすらできない。また、ソラリスは物理法則をねじ曲げ、何らかの形で物理法則を「理解」していることは確実である(場を制御する)が、彼らの「科学」は人類に理解できるか心許ない。
「天の声」においては、「砂漠の惑星」的な要素は少なく、ソラリス的な要素が大きいことはすぐ分かる。ソラリス的理解可能性について、レムが「天の声」で与える説明は、よりカント的である(急に「物自体」という言葉が出てきて驚く)。カントの枠組みでは、人間の認識能力において先験的に備わっている二種類の認識形式、感性と悟性のうち、感性には純粋直観である空間と時間が、悟性には因果性などが含まれる。これらは、人間の生物学的条件などに強く左右されるが、科学であっても、人間はこの認識形式の外に出ることはできず、この形式を通して認識される感覚データを通じて物事を認識し、外の世界について考えざるを得ない。この形式に上手く当てはまらない理性理念は原理的に人間には認識できないが、少なくとも課題として必要とされる概念とされる。神がその代表例で、物自体と呼ばれる。宇宙人のメッセージは、宇宙人と、そして解読者である人間の文化、最低限でも認識形式の混入は免れない。文化の混入のない「無文化言語」は、「物自体」と同じく、単なる理想化されたありえない存在に過ぎない。
当然、ソラリス、そしておそらくメッセージの送り主は、歴史も生物学的要素も根本的に異なるため、認識形式は異なる。従って、科学は認識形式に依存して展開されるため、彼らの科学は我々の物とは本質的に異なる可能性がある。

現代の物理主義的な分析哲学の視点からは以下のような話になる。宇宙人は生物学的に地球人と大きく異なるはずで、言語や社会的前提など、進化的に獲得された基盤は大きく異なるはずである。宇宙人の生活形態は人類と大幅に異なる以上、彼らが「言語」を持っていると言うことさえできないかもしれない(言語は翻訳可能性を前提とする;「ライオンは人間の言語を話せないのではなく話さないのだ」)。科学は、進化的に獲得された「もっとも信用できるノウハウ集」でしかないため、もちろん進化史的制約を受ける。

数学の文化的要素?

「完全な真空」のゴーレムIX:「超知性」の誕生
人間が作り出したにもかかわらず、理解することができない存在
冷戦を超えた存在

第二節 宇宙人の意図?


「アリは、彷徨った末に死んだ哲学者に出会うと、それから利益を引き出す」(p.30

「実はコンピュータ用のテープをピアノラにかけて、そいつが奏でた楽句が、つまりあの『カエルの卵』だと思っているんだろうが?」(p.161

「料理の本で『黒豚』を『河豚』と読み違え、そのまま料理を作ってしまい、それを食べた宴会の出席者が中毒死してしまった」(p161


「天の声」の宇宙人は、余りに多くのエネルギーをメッセージの送信にあてているため、その意味で理解不可能である。彼らの生物学的背景を伺わせる情報は全くない。宇宙人の正体に関し、ソラリス的な、不可知論で終始する(ソラリスは、直接会うことができる分、まだマシである)。ソラリスがハリーを引き起こし、擬似的にコミュニケーションがとれているように感じる瞬間があったように、「天の声」でも人類は「蠅の王」を作り出す。しかし、どちらにおいても、一体それにどんな意味があったのかを知ることはできない。
もしかしたら、宇宙人は善をなそうとして、コロイド凝縮効果のあるニュートリノ線を宇宙に充満させたのかもしれない。地球人は核科学しか興味がないため、その善なる意図から悪をくみ出してしまったのかもしれない。
しかし、「泰平ヨンの現場検証」に出てくる「四宇宙説」が示すように、「生物に好意的な宇宙では、生物が雪崩を打つように繁殖するため、増えすぎて、生物が逆に全滅してしまう」。そのため、適度に無慈悲な宇宙の方が、結果的には生命にとって優しい(ライプニッツ的結論)。もしかしたら、増えすぎた生物を篩に掛け駆逐するために、爆発移転効果のような軍事技術を教え、自滅を誘うのかもしれない。これは単なる妄想かもしれない。

もちろん高度に発達した宇宙人の意図は、全く理解することができない。この点で、「天の声」の宇宙人は神と同じ扱いであり(タイトルからして…)、神の摂理を理解できない罪深い人間達の七転八倒が本書のテーマとなっている。レムの「第二十一回の旅」が象徴的(異星の地下修道院の図書館に直行し本を読んでいるだけで話が終わる)だが、流石ポーランドのインテリ、彼の神学テーマ好きはいつものことである。

宇宙人の意図に関する主人公の「宗教的」感覚

「天の声」巻末で、ソラリスのセルフ・パロディか、メッセージが、送信者の意図が全く関与しない「ニュートリノ排泄物」である可能性を示唆している。つまり、宇宙人は、単に理解不可能であるだけでなく、本当に存在するかどうかも分からない。この意味で、「天の声」は、本当に不可知論小説であり、最後に来るのはアンチ・クライマックスである。

2013年6月29日土曜日

一階述語論理と集合論は循環している?

お久しぶりです。このブログ、一年近く放ってありましたが、久々の恒真…もとい更新です。今日は、先日見つけた論理学ネタについて。
一階述語論理と集合論は循環していませんか?
一階述語論理の意味論には集合概念が使われていて集合論の公理は述語論理で記述されているように感じるのですが、これは卵が先か鶏が先かの構造になっていないのでしょうか。 
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13108980443
この問題は、質問者自身が言っているようにもちろん擬似問題ではあり、循環はしていないのですが、いい点に気が付いたな、と思います。これは、実は昔から論理学を学ぶ良くできる学生は必ず一度は悩むと言われている問題なのです(ちなみに僕は良くできる学生ではなかったので、自分では気がつきませんでした)。
この質問は、形式的な論理学に関し多くの人が漫然と持っている誤解と混同をあぶり出す、いい話題なため、今回の更新ではこれをネタにさせて頂きたいと思います。

もちろん、この答え、やふー知恵袋に直接書けばいいのかもしれないのですが、主義として知恵袋には書かないことにしている(メディアとしてあれは害の方が大きいと考える)ため、ここでの解答とさせて頂きます。

さて、この質問、実は二つの疑問が混同されていると言うことができます。
  1. 述語論理に意味を与えるとはどういうことか?述語論理の意味論を与えるためのモデルは、どこで構成されているのか?
  2.  述語論理のモデルを公理的な集合論上で構成することは、何を目的としているのか?
述語論理の意味を与える?
まず一つ目の疑問に関して。この話は、誰もが漠然と当たり前と思っているけれど、でも 突き詰めてみると実はよく分かっていない話が出発点にあります。即ち、「対象レベル」と「メタレベル」の問題です。

対象とメタ
そもそも、形式的な体系、ここでは古典論理の述語論理を例にとりますが、それらをわざわざ定義する目的とは何でしょうか。いろいろな答えがあるとは思いますが、ここでは以下のような方向で考えてみたいと思います。
そもそもの大目的は、人間が数学の場面で行う推論を理解したい、詳細に分析したいということです。ただ、人間の行う推論全体は、あまりに複雑で、なかなか分析をすることができない。複雑な現象を理解したいとき、よくやるのはコンピューターでその現象をシミュレートしてみることですね。例えると、天気を理解したいときは、まず大気圏に関する科学理論から一つのモデルを作り、そのモデルをコンピューター上に入力して、大気圏をコンピューター上でシミュレートし、現実の天気と比べてみます。だから、例えばコンピュータで推論そのものをシミュレーションできるか考えてみよう、というアプローチを採用してみましょう。このとき、シミュレーションのための仮定に相当するのが形式的な公理系なのです。
このとき、シミュレートするための枠組みを表す言葉として、以下の二種類の言葉を定義しましょう。
  • メタレベル:シミュレートする人間や、シミュレートされる(実際の数学)の世界のこと。
  • 対象レベル:形式的体系、つまりコンピューター上の形式的シミュレーションの世界。
 
こちらは、算数と形式化された自然数論の関係についてのイメージ図です。

形式体系の意味?
ちょっと話を戻しましょう。述語論理などの形式的体系は、一見単なる記号列で、その記号自体に意味があるようには思えません。そして、もしこれらの体系が何の意味も持たないならば、そもそもこれらを考える意味はありません。これらの形式的体系が意味を持つとはどういうことでしょうか。
もちろん、この疑問にはいろいろな考え方があります。一つの考え方は、形式的体系は「現実世界」を模倣することで意味を持つ、と考える事です。 少なくとも、「本当の数学の世界」の何らかの数学的対象「意味論」を、形式的体系が上手く表現していれば、その体系は意味を持つ(そのメタレベルの数学的対象を、うまく対象レベルの記号の世界でシミュレートしている)と考える事ができるでしょう。こういう考え方、つまり対象レベルの形式的体系の意味とはそれが表現するメタレベルの数学的対象によって決まる、を「モデル論的意味論」と呼ぶことにします。

この考え方に従うと、古典命題論理の意味論である「真理関数」や、述語論理の意味論である「タルスキ・モデル」は、対象レベルの形式的な対象ではなく、メタレベルの数学的な対象だということになります。

あまり関係無い話ですが、この形式的体系への意味の与え方の件、いろろなアプローチがあります。

では公理的集合論上では何をしているの?
前節の議論を読んで、疑問が起こった方もいるかもしれません。述語論理のモデルは、多くの場合、領域が無限のものを考えます。だから、モデルは非常に巨大な無限の大きなのものです。そんなものを上手く作ることが出来るのでしょうか?

公理的集合論:無限を分析する対象レベルの理論
無限に関しては、直観に反することがたくさん起こります。従って、数学の世界で「無限に関しこういう事が言えるはずだ」と誰かが言い出した場合、注意深くその主張を分析する必要があります。その分析のツール、それが公理的集合論なのです。公理的集合論は、もちろん対象レベルの形式的体系です。これがシミュレートするのは、人間によって行われる、メタレベルでの、無限に関する数学です。
さて、前述のように、古典述語論理のモデルの構成は、メタレベルの数学の世界で行われます。これも、無限に関する推論の一種です。だから、無限に関する数学的体系である公理的集合論で、シミュレートすることが出来ます。これが、質問者の言うところの「公理的集合論上で古典述語論理のモデルを作る」という作業なのです。
この場合、無理矢理書くと
  • メタレベル:人間の数学の世界
  • 対象レベル:
    • 対象レベル内のメタレベル:公理的集合論
    • 対象レベル内の対象レベル:古典述語論理
みたいな感じでしょうか。
下はそのイメージ図。形式的体系の中で別の形式的体系の研究をする事の最も有名な例はゲーデルの不完全性定理で、下図はそれについてのものです。



この古典述語論理のモデルを作る作業、最も典型的なのは完全性定理の証明ですね。多くの場合、完全性定理はメタ理論を人間の数学として行われます(ツオルンの補題とかケーニッヒの補題は数学の世界の原理として登場します)。
しかし、これらの作業をコンピューター上で形式的にシミュレートし、この構成法そのものをじっくり分析することも可能です。この意味で、集合論上のモデル論は、論理に意味を与えるためのものというより、数学的に論理体系を研究するための道具と言った方がいいように思えます。

この話がもう少し発展すると、「では、メタレベルにおけるXという定理の導出をシミュレートするためには、対象レベル内部のメタレベルとして、どのくらい証明力の強い体系をもってくれば、対象レベル内部の対象レベルでXが証明できるのか」を考える事ができます。単にめんどくさいようにも思えますが、実は、この分析は、Xという数学の定理を分析する上でそれなりに有効である、と言うことが分かってきました。
このように、形式的体系が、メタレベルの数学の分析の道具となってきた、これが20世紀後半以降の数理論理学の研究の流れなのです。