2016年1月26日火曜日

ホントツキ文はホントウなのか

 お久しぶりです。このブログの更新も年に一回ペースとなってきましたが、本日は真理理論についてです。先週末、大学院の研究科横断授業において、真理理論のミニコースをやったんですが、初日の土曜日の夕方に悪さをしない自己言及文である「ホントツキ文(truth teller)」の話になりました。これは、
この文はホントである
 という文です。この文を否定したらウソツキ文「この文はウソである」ですね。
 ホントツキ文とウソツキ文の違いは、もちろん、ウソツキ文は存在を認めるだけで矛盾を導くけれど、ホントツキ文は認めても何も問題を起こさない、ということです。
  • ホントツキ文が真だとしましょう。この場合、ホントツキ文は真になります。だってホントツキ文が真であることが真だから…そりゃそうだ。
  • ホントツキ文が偽だとしましょう。この場合、ホントツキ文は偽になります。だってホントツキ文が偽であることが真だから…そうだね、偽だね。
 という訳で、だからなんだという話です。別に矛盾は起きません。クリプキは、outline theory of truth において「ウソツキ文は真理値を認めたらヤバいけど、ホントツキ文は認めても別に害はないんだから、真理値を割りふる対象にしていいじゃん」と論じています。

ホントツキ文に真理値を割りふって良いことにしましょう。では、真理値は真と偽どっちなんでしょうか? …これ、けっこう難しい問題なんですよね。グプタとベルナップは、「ある文が真であるためには、その文を真にする何か特質(virtue)があるはずだ」と論じています。続けて「ではホントツキ文が真だとすると、ホントツキ文を真にする特質って何やねん?」
はい、ホントツキ文は、ただ「自分が真である」と言うことだけを主張していて、何の根拠もありません。というか、自分自身の正しさを根拠無しに主張することこそが、ホントツキ文の本質なのです。
 果たしてこの文はホントなのかウソなのか。授業の時に出席者にホントツキ文をホントと感じるか、直感を聞いてみました。すると
  • ホントと感じる 3人 
  • ウソと感じる 0人 
  • どちらでもないと感じる 4人 
という結果になったんです。ということで味を占めて、実験哲学の精神に則り、ツイッターで皆さんにアンケートを採ってみました。その結果が以下のツイートです。


大変意外な結果でした。何と言っても、ホントと感じる人とどちらでもないと感じる人の間に余り有意な差が無いこと、それから(どこにも否定が使用されていないので論理学的に偽と感じる要素がないにもかかわらず)ウソと感じる人が意外と多いことです。

この件に関し、意見を聞いてみると、結構面白い意見が聞けました。
まず、真と感じる人。この人達は「なんとなく真だと感じた」「直感的に」という感じの答でした。
次に真偽どちらでもないと感じる人。こちらは「初めは真だと感じたが、次の瞬間『真偽どちらでもない』と思い直した」など、ちょっと考える時間が挟まっているのがポイントです。
最後にウソと感じる人。こちらの方のコメントが大変示唆的です。

以上を踏まえて考えてみると、以下のように整理できると思います。
  • 最初の瞬間、ホントツキ文は「ホントだ」と言っているのだから、まず多くの人はその主張を素朴に信じる。なぜならば信じてはいけない証拠はないのだから。
  • しかしそれは一瞬であり、二瞬目には、ホントツキ文がホントである証拠がないこと、同時に否定する理由もないことを見て取る。その後の対応は個人差がでる。
    1. 多くの人は、肯定する理由もないが、否定する理由もないので、判断を代えない。
    2. 同じくらい多くの人は、肯定する理由も否定する理由もないので、「真偽どちらでもない」と判断を代える。
    3. 一部の人は、ホントツキ文が何の理由もないのに「ホントだ」と主張する姿を見て、疑念を持って判断を代え、ウソだと考える。
まとめると、ホントツキ文のような根拠(真偽を決める特質)のない文の真偽を考えると、以下のような三つの真理に対する別の考え方を反映するようです。
  1. 否定する理由がなければ文は真
  2. 肯定する理由があれば真、否定する理由があれば偽、どちらでもなければどちらでもない
  3. 肯定する理由がなければ偽
人間が素朴に持っている真理概念は、多くの場合、みんな共通であると思われていますが、ホントツキ文の例が示すように、実は結構食い違っているのかもしれません。 さらなる検討が求められます。