2017年5月15日月曜日

意義と公共性




本論は、以前の授業資料の一節の抜粋 である。いや、書き直していたらお蔵入りになりそうなもので、こっちに書いておく事にしました。

「文の意味」という話題になると、決まって、文や言葉の意味なんて解釈する人それぞれで、共通の理解なんて存在しないし、ましてや意味の理論なんて構築不可能だと主張する人たちが出てくる。また、一見異なった立場だが、例えば、文や語がそれを聞いた人間の脳(もしくは心、心的プロセス)に何を呼び起こすかを特定して、そのニューロンの励起か何かを文や語の意味とする、という脳科学チックな解決法を考える人もいるかもしれない。

どちらのやり方も、意味というものがあるとすれば、それは人間の心の中のプロセス(後者の場合は生化学的)の中に私的に存在し、伝達したり共有したりはその後の話である(したがって困難である)という立場にもとづいているように思われる。
そして、どちらも、昔から心理主義的誤謬と呼ばれる誤謬の現代版であり、特に後者は現代のトンデモさん御用達である。
19世紀に完膚なきまでに心理主義を批判したフレーゲ曰く
「[心理主義は]概念はまるで葉が木に生い茂るように個々人の心の中に発生し、その発生を研究し人間の心の本性から心理学的に説明しようとすることで概念の本質を知ることができると考えられている。しかしこの考えは、全てを主観的なものの中に引き込み、突き詰めれば真理を捨て去ることになる」(フレーゲ「算術の基礎」序文)
フレーゲが「意義」を導入して以降の現代的な言語哲学においては、言語の本質とはその公共性である。もちろんコミュニケーションの場面では、どんなときにでも誤解の余地はある。もしかしたら「コミュニケーションがうまくいっている」という思いは、コミュニケーション参加者の錯覚かもしれない。しかし、人間は、第三者の観察者の目から見て、多くの場面であたかも本当に意思を疎通させているように振舞っているように見える(このことは、数学が自然現象をシミュレートする際に大変有用である事と並んで、哲学における最大の難問の一つであるが、しかし、多くの場合ホントに上手くいっているんだから仕方がない。)。

冒頭で述べたように、私のアプローチは、人間の推論を観察し、観察可能なもののみに基づいて、その外見をシミュレーションできる記号体系を観察することである。直接に観察可能でないもの(真理値など)は、観察可能な現象の説明のために、二次的に導入される。したがって、本書では、外から見て観察可能な事象、つまりコミュニケーションにおいて意思疎通が成功したように見えるかどうかのみを考慮の対象とする。主観的な人間観では、この多くの場面でなぜコミュニケーションが成立しているように見えるのか、説明できない(もちろん主観的な立場に立てば、自己申告で、「彼女はぜんぜん僕の言うことを分かってくれていない」とか言うこともできるかもしれないが、本アプローチにおいてそんなことは知ったことではない)。

ナイーブな例えだが、人間の心的プロセスを、ノートPCの類推で考えてみよう。
人間の「心」や脳や神経系は、ノートPCのハードウェアに相当する。ノートPCに何か入力(文字列)をしたとき、入力は電気信号に変換され、最終的にはCPUで処理される。同様に、人間の言語も最終的には脳のニューロンで処理される。この意味で「主観的」(もしくは脳科学的)である。しかし、現代のPCの場合、たとえば入力した文字列の処理をハードウェアにのみ依存したやり方で行うことはない。デルのノートPCとVAIOでは(ましてや筆者が使っていMacBookでは特に)ハードウェアの構造も使用部品も違う。しかし、どのノート上でも同じOS(Windows)は動くし、そのOS上で、どのPC上でも同じMS Wordが動く。
入力文字列を処理する手続きは、多くの場合、ハードウェアから独立に、OSやソフトウェアのレベルで決められている。

人間の場合、「意味」の処理は言語によって行われている。
人間は、(その人間が生まれる前から存在する、社会的で公共的な)言語によって概念を定義し、概念を操作する。人間の場合でも、フレーゲ風に言えば、思想とは客観的なものである。ある程度以上抽象的な概念やその操作、例えば「言葉の意味」や「数学的概念の操作」は、公共的なもの、つまりコンピューターで言えばハードウェア依存ではないOSレベルの現象である。
したがって、人によってその中身が異なる可能性を考えなくてよいし、それらの概念がどのように理解されているかを理解するために神経系などといったハードウェアに近いレベルを考える必要があるのか疑問である。

読み直してみると、これ、どこにも名前が出てきませんけど、えらくデネット的なんですよね。書いた当時読んだ事がなかったんですが、そういう発想は世間中にいろいろな形で広がっていて、どこかで感染したんでしょうか。